いじめ・不登校・学級崩壊…子どもたちの“問題行動”の原因はどこにあるのだろうか?
原因を教育にだけ求めるのではなく、日本社会全体の変化の中で考えてみよう
前回の議論をふりかえっておこう。教育を変えねばならない、という焦燥にも似た思いが私たちのなかにあるが、それは、八○年代以降目立ってきた少年の問題行動(いじめ・不登校・学級崩壊・高校中退・援助交際・少年の暴力事件等々)からきている。そして現在の教育改革は、問題行動の原因を、受験競争が子どもたちのゆとりを奪い大きなストレスを与える点に見ているが、現実には受験競争は緩和されていてこの考えは当たらない、ということを述べた。
そこで今回は、問題行動の原因とは何か、を考えることにしたい。
日本社会では、一九八○年くらいを境にして、それまでの「後発近代」的な世界像が壊れてしまい、いわゆる「豊かな社会」が訪れた。少年の問題行動も、そうした日本社会全体の構造変化の一環とみなしてはじめてその意味がはっきりする、というのがぼくの意見である。
まず、後発近代的な世界像の壊れ、について簡単にスケッチしてみよう。
明治から一九七○年代までの日本人の基本的な世界像は、国家レベルでは「欧米に追いつけ追い越せ」という富国強兵の物語(戦後は富国だけ)だった。個人レベルでは、「高学歴を身につけることによって、貧しく窮屈な田舎を脱出して、豊かで都市的で自由な生活を実現できる」という夢が、人々を駆り立ててきた。
しかし八○年代初頭には、こうした国家目標も個人の目標も、ともに終わってしまう。豊かさと高学歴が、かなりの程度、日本社会に行き渡ったからである。それは、社会全体の目標がなくなり、個人も自分をどう方向づけてよいかわからない、そうした時代のはじまりだった。
この変化は、まず教育の場面で突出した形で現れた。「高学歴を身につけて立身出世する」という、それまで勉学を支えていた「物語」が崩壊したからである。
第一に、子どもたちはすでに豊かなのだから、勉学によって貧困から脱出するという動機を失った。さらに、高学歴がふつうになったことは、受験の努力に対する「見返り」が少なくなったことを意味する(大卒だからといって特に活躍できるわけでもない)。こうして「受験のための勉学」という目的が解体し、少年たちは「なんのため」かがわからないまま、学校に行かなくてはならなくなった(ちなみに、いじめの発生の理由を「目的を欠いた空間のなかでのヒマつぶし」と捉える見方もある)。そうした勉学の意味の解体とそれに伴った目的意識の欠如が、問題行動の背景にあるとぼくは考える。
さらに、日本社会が「消費社会」化したことも大きく影響している。かつての世界像は「家や社会に貢献する何らかの役割を果たしてはじめて、まともな人間である」という生き方の枠(制約)を含んでいた。しかし消費社会の到来はそうした枠を取り払って、「一人ひとりが自分なりの“歓び”を汲み取るために生きる」ことを当然のものとした。
じっさいいまの子どもたちは、幼いころから自分なりの消費生活を楽しんでいる。快を得ることを当たり前と思って育つ彼らからすれば、「集団のなかに入ること」及び「勉学」は基本的には労苦・ストレスなのであって、それに耐える理由がハッキリしないならば、逃げ出したくなるのも当然だと思う。しかし肝心のその理由(勉学の意味)が、与えられないままなのだ。
このようにみてくると、教育についての新たな理念(勉学の意味)を再構築し共有することが非常に重要であることがわかる。そのさい、子どもたちがそれぞれ世界像(生き方)を構築する過程をどうやってサポートするか、も考えに入れなければならないだろう。
次回は、教育理念はどこから・どうやって再構築できるか、を考えます。