社会学と市民社会の理念
−−「思想としての社会学の可能性」課題報告へのコメント



(要約)
 社会学を、社会の困難の原因を捉えその認識を社会の構成員と共有しようとする営み、と捉えるならば、そこには「対等な市民によって運営される社会」ともいうべき一つの社会理念が前提されていることがわかる。本稿では、この社会理念を「市民社会の理念」と呼び、その内実を明らかにするとともに、パーソンズ、ウェーバー、マルクスの三者が市民社会の理念に対してどのような態度をとろうとしたか、という観点から、課題報告に対してコメントしている。−−最初にパーソンズを、革命に期待することなく自由・平等の理念を実現するための社会的条件を考え続けた思想家として評価し、次にウェーパーを、市民社会と市民的主体が成立するための条件について思考した思想家として、評価する。マルクスに関連して、市民社会の理念の実質的な実現を企図した社会主義理念の失敗についても、考察する。
  キーワード;「社会学の営み」「市民社会の理念」「市民社会の条件」


.....1.パーソンズと市民社会の理念


 最初の高城会員のパーソンズの報告を、非常に興味深く拝聴した。パーソンズについて「AGIL図式という包括的な社会のモデルをつくった人」というイメージしかもっていなかった私にとって、彼が強い実践的な熱意の持ち主であったことは意外だった。
 報告によれば、パーソンズはマルクスの階級闘争論を高く評価している。マルクスとちがって「競争」ということじたいは是認しているようだが、公平な競争基準の制度化が難しいこと、弱者が搾取されやすいこと、階級文化の発展がチャンスの平等を難しくしている点などを、きちんと見据えようとしている。マルクスの主張を受け入れつつ、具体的な対等・平等が可能になるための条件を模索しようとしていることが、報告からは伝わってきた。
 ウェーバーについては、ナチズムを生みだしかねない近代社会の緊張と不安定性をみた点を高く評価しつつも、「鉄の檻」に見られるようなペシミズムには批判的であり、市場モデルでも官僚制モデルでもない、合議制アソシエーションモデルを構想することによってペシミズムを乗り越えようとした、ということだった。
 高城会員の報告から全体として浮かび上がってくるのは、階級闘争や官僚制、またその不安定性といった近代社会の問題から目を背けることなく、自由・平等・友愛という「近代の市民社会の理念」−−高城会員は報告のなかでそう述べておられる−−を実現するための条件≠しぶとく構想しようとする姿勢である。一人の社会学者であり思想家であるこのパーソンズの姿勢に、感銘を受けた。
 彼のなかには、資本主義を否定し革命をめざすマルクスや、「鉄の檻」に見られるウェーバーのペシミズムに対して、はっきりとした一つの思想があったように思われる。それは、〈われわれの社会は、資本制であってもやはり「市民社会」なのであって、その可能性・潜勢力を軽視してはならない。過度なペシミズムに陥るのではなく、社会が市民社会として生き生きと機能するための条件と方法を考察せねばならない〉という思想だったのではないだろうか。
                  *
 ここでこの「市民社会の理念」について、少しつっこんで述べてみたい。というのは、この理念こそが社会学の営みの土台≠ノなっていると私は考えているからだ。
 社会学の理論は、そもそも「客観世界をそのまま写し取る」という意味での単なる客観認識ではない。社会学上の古典と目されるマルクス、ウェーバー、デュルケムといった人びとの仕事をざっと想起しただけでも、それがきわめて実践的な関心から生み出されていることは明らかである。マルクスは、極端な貧富の差や経済恐慌といった現象の原因を資本に求め、ウェーバーは官僚制的硬直化を、デュルケムは自殺率の増加にもつながる社会的連帯性の緩みを問題としたのだった。彼らの社会認識はどれも、社会において経験される困難の原因をつきとめ、それを解決するための社会政策・社会構想を生み出そうとする関心から生まれている。
 つまり、彼らの社会認識の営みにおいては、「対等な人びとによって運営される社会」という理念がおおまかに共有されているのであり、そうした理念に奉仕するものとして、社会的な困難の認識から社会政策(社会構想)へ、という社会学の営みがあったといえる。
 私たちにとって、この理念はあまりにもあたりまえ≠ナあるために、それが一つの理念であることも忘れがちだが、しかしこれは、主として近代の「社会契約説」によって形づくられてきたものである。
 社会契約説は、現代の社会学の立場からはフィクションとしてあざ笑われたり、社会以前に「個人」を想定する誤りを指摘されることも多いが、私の考えでは、社会契約説がつくりあげた、社会についての近代的な理念−−「市民社会の理念」−−こそが社会学の土台となり、社会学を可能にしたものといえるように思う。それはホッブズ、ロック、ルソー、さらにカント、ヘーゲルといった思想家たちによって鍛えられてきたものだが、そのポイントは、次のようなものとして整理することができるだろう。
1.国家の秩序(制度や法律)は、神が定めたものではなく、あくまでも人々が「共存」するためのものである。−−社会契約説には、国家の秩序の存在根拠を神から人間の側に移す、という決定的な転換がある。この転換は、一度生じると不可逆なものになってしまう。またここから、社会の秩序は変更しうるという思想も生まれる。
2.個々人の自由な意志決定をなるべく尊重する。ルールに決められたこと以外は、個々人の自由(自己決定)にまかされる。−−市民社会の理念は、基本的に「リベラリズム」(自由主義)である。
3.対等なメンバー(市民)がルールや政策を合意しつつ形成することによって、好ましい共存の条件をつくっていくことができる。−−社会の正当なメンバーであるための要件は、宗教や民族や出自から切り離され、「社会の基本ルールを守ること」のみに限定される。そしてどのメンバーも、「ルールの下での対等」と「ルールを決定するさいの権利の対等」を認められることになる。
 そして、これらの項目によって表現される市民社会理念の中核にあるのは、対等な市民たちが、困難な事柄についてともに配慮し対処することによって、社会をより好ましいものへと形づくっていく、という理念(思想)なのである。
 近代社会が生みだした市民社会理念は、イギリス市民革命、アメリカ独立革命、フランス革命を通じて、人権や民主主義という形で制度化され、欧米の社会に定着していく(他方で、ナショナルな国家観=民族のための国家という思想も生まれたのだが、ここではそのことは追究しないでおく)。個人の自由をより重視するか、それとも福祉や経済的平等をより重視するかといったちがいはあるとしても、「対等な市民によって運営される社会」というかぎりでの市民社会理念は、現代の先進国を生きる私たちにとって、基本的に共有された@摧Oとなっているといえるように思う。
 この理念が形づくられたのは一七世紀から一八世紀にかけてだが、一九世紀において、この理念は大きな試練を経験することになる。一つは、産業革命と資本主義の進展によって極度の貧富の差が生じたことだ。そこからは、市民の対等(平等)は単に法的なものであって実質的なものではない、という批判が生まれる。さらに、官僚制的硬直化の現象も生じてくる。これらの「物象化」的現象は、「自分たちで社会をより好ましいものに形づくり運営していくことができる」という理念を脅かすことになった。
 あるとき、司会の菅野会員は「容易にコントロールしえない社会の自律的な性格の発見が、社会学を動機づけている」と私に話してくださったことがある。たしかに古典社会学の創始者であるマルクスもウェーバーも、社会の自律的な運動とそこからもたらされる困難とを認識しようとした。だとすれば、社会学はもともと「市民社会が生き生きと機能するための条件は何か」という問いに照準していた、といえるのではないだろうか[*1]。
 私は、社会というものは二つの「相」でもって経験されると考えている。一つは、自然環境と似た〈客体的環境〉という相である。天気が変動するように、金融市場では株価が変動する。こうして社会は、一つの自律的に運動するもの≠ニして経験される。しかし社会は自然環境とまったく同じではない。社会はわれわれがつくりあげている、という感覚も、私たちのなかには存在しているからである。つまり社会は、ともにルールをつくり共同の問題に対処しようとするわれわれ≠ニして、つまり〈共同的主体〉の相としても経験される。社会学は単なる客観認識ではなく、こうした〈共同的主体としてのわれわれの行う営み〉であって、みずからの認識を他のメンバーに訴えかけ共有しようとする行為としての意味合いをもっているのである[*2]。
 菅野会員の言葉に戻れば、「容易にコントロールしえない社会の自律的な性格の発見」は、しかし、大変な困難をつきつけることになった。この困難があまりにも大きいがゆえに、マルクスは「革命」という方向以外にはない、と考え、ウェーバーはペシミズムの傾向をもつことになる。
 しかし、市民社会の理念を、現代を生きる私たちが獲得した不可逆の価値規範であるとするならば、それが生き生きと機能するための条件を、革命的転覆やペシミズムといったものに陥ることなくしつこく考えようとする−−資本主義のもたらすマイナス(環境資源問題や南北問題)や、官僚制的組織の硬直化といった問題にどのように対処しうるのかを考え抜く−−ことこそ、社会学の本来の課題であったように思えてくる。そして、パーソンズは誠実にこの課題を歩んでいったように、思えてくるのである。
                   *
 さて、こうした点からみたとき、AGIL図式に代表されるシステムとしての社会把握は「何のために」(どういった分析のために、またどういった社会の問題に照準して)形づくられたのか?という疑問があらためて沸いてきたのだが、この点について当日、高城会員に質問したところ、「ファシズムをも生みだしかねない近代社会の不安定性と緊張をどう解決しうるか」という問いがその基底にあることを、示唆していただいた。


.....2.ウェーバーと市民社会の条件

 次の松井会員のウェーバーの報告は、「合理的に選好を行う個人」を成立せしめる条件≠考えるという視点が興味深かった。
 「諒解」という概念が、合理化された近代的な社会編成を可能にしているもの、に照準したものであり、そこには、自律的に判断する目的合理的な個人を可能にしているいわば不合理な要素に着目するウェーバーの姿勢が現れている。それは一方では、合理化の論理を明らかにするという課題に、他方では、貴族主義や身分的性格のような〈伝統回帰的〉現象の解明へとつながっている。−−そういう主旨の報告だったと思う。
 この報告は、合理化が単線的に進行していくという旧来のウェーバー像の訂正を迫るものだが、合理的な制度ないし主体の前提条件を問うという着眼は、現代の日本社会における主体の在り方について考えるうえでも重要であるように、私には思われた。
 見田宗介は、冷戦の終結にふれながら、それが個々人の自由を広く認める「自由な社会」の理念の勝利を意味しており、これからの社会構想においてこの理念を手放すべきでないと述べている(見田,1996:122-124)。
 私もその意見に同意するが、この「自由な社会」−−これは先ほど述べた「市民社会の理念」に内包されている−−がうまく機能するためには、それにふさわしい「主体」が必要となるだろう。すなわち、1.自分の人生をみずから選択しつつ、つくりあげていくことができること。2.社会の状態に関心を寄せその困難を改善しようとする心構えをもつこと、である。
 しかしまさにこの二つの事柄が、いまの日本社会では危うくなっている。
 「近代的な市民はいかにして可能か」という問いは戦後思想の一つのテーマだったが、そのさいにこの問いは、お上意識の残存をどうやって排除して自立した市民になることができるか、というかたちで立てられてきた。しかし現代の状況は、この問いを新たな角度から考察することを迫っている。
 ウェーバーが、多くの価値のなかから自分の価値を自覚的に選び取り、それを行為によって実現しようとする持続的な動機をもつ「文化人 Kulturmensch」の理念を語ったことはよく知られている[*3]。自分自身を意味づけつつ世界に関わろうとするこうした生き方に対して、宮台真司は現代社会を「成熟社会」と規定した上で、「意味から強度へ」という生き方の転換を主張している。つまり、ウェーバー的個人はもう不可能だ、時代遅れだ、というのが宮台の言い分である(宮台,2000: 87-95)。詳しく論じる余裕はないが、かりにウェーバー的個人が不可能であるとしても、宮台のいう強度(=そのつどの濃密な体験)を求める生き方にも大きな困難があり、やはり現実的なものではないと私は思う。「快楽主義的で軟弱≠ナあるとしてもやはり市民でありうるような、そうした主体は可能かどうか、可能だとすればどういう条件が必要なのか」−−この点が問題なのである。
 ウェーバーに話を戻すならば、「ウェーバーを市民社会と市民的主体が可能であるための条件≠解明しようとした思想家として読み直すことができるか」ということになる。もしそうできるならば、市民的主体を再構築するためのヒントをそこから受け取ることができるかもしれない。


.....3.マルクスと市民社会の止揚?
 
最後の加藤会員の報告は、思考における抽象とは異なった、資本制社会に内在する抽象化作用を「遂行的抽象」と名づけている。
 近代の自由と平等という理念が「商品交換」という相互行為のなかにその根拠をもっていることを指摘するとともに、それが無批判に理念化されることによって資本と労働の交換の実質を隠蔽するものとなっていることを抉りだし、〈自由で平等な諸個人が交換によって織りなす社会〉という「市民社会の自己記述」を批判する。さらに、労働者が資本との関係で「一面化」を蒙ることを指摘し、しかし大工業において「全面的に発達した個人」が潜在的に準備され、また「労働時間の短縮」を通して自由な活動の条件が潜在的に準備されていくことを見通す。−−こうしたマルクスの思考の道筋が、報告では鮮やかに浮き彫りにされていた。
 あらためて私なりに言い直すならば、マルクスは自由・平等という理念に対し、それが生みだされてくる社会的現実を反省しつつ、かつ、その理念が隠蔽しているものを鋭く見てとるとともに、さらに理念の実質的な実現の可能性を探っていった。このマルクスの姿勢は、社会科学的認識を通じて社会的理念を鍛え上げようとするものであって、「思想としての社会学」の営みにとってまさに一つの模範ともいえるものだとあらためて思う。
 しかしこのことによって、マルクスは市民社会の理念の批判者(自由・平等はむしろ社会的現実を隠蔽する)であるとともに、その継承者でもある(その実質的な実現のための条件を探ろうとした)という微妙な立場を取ることになる。
 マルクスから生まれた社会主義の理念(これは必ずしもマルクスその人の理念とはいえないが)は、「対等なメンバーによって社会をコントロールする」という点では、市民社会理念をそのまま継承するが、市民社会理念の最大の柱である「自由」を大きく制限する。「私的所有とその自由な売買」を認めれば、利益の最大化をめざす資本の運動を生み出し、労働者と資本家の対立や植民地争奪戦をもたらすことになるからである。
 だが、市民社会理念の形成者であるロックやヘーゲルたちは、この私的利益の自由な追求を、人生を「自己決定」しうるという自由の感覚にとって必要不可欠な条件≠ニ考えていたのである[*4]。
 マルクスも、おそらく多くの社会主義者たちも、自由を重んじていたはずだが、市民社会の理念を実質的に実現しようとしたはずの社会主義の理念において、「自由を可能にする条件は何か」という思考が欠落していたのは悲劇だった。社会主義の実験の失敗は、私たちがもう一度、市民社会の理念に立ち戻り、そこからあらためて「自由の条件」を問い直すべきことを告げている。
 マルクスが社会を形成する巨大な力としての資本の運動に着目したことは、今なお古びていない。環境=資源問題、グローバリゼーションのもとで拡大する南北の経済格差を考えてみても、それは明らかだ。しかし、マルクスとともに、市民社会理念の根拠を徹底的に思考したヘーゲル『法哲学』を読み直すことが、市民社会理念の実質的な実現の可能性を探り新たな社会構想につなげるために不可欠である、と私自身は考えている。


[註]
*1 市民社会の理念と社会学の成立についての詳しい説明は、西研(2001:315-325)を見よ。
*2 〈社会〉という対象がいかに経験されるかについての詳しい説明は、西研(2001:311-315)を見よ。
*3 「文化人」の理念については、『客観性論文』(Weber,1968=1998: 93)を見よ。松井(1995: 54-55)にもその説明がある。
*4 ヘーゲル『法哲学』(Hegel,1970)の所有論及び市民社会論を見よ。その意味合いについては、加藤(1993: 60-115)が詳しい。西研(1995:205-208)は、ヘーゲル市民社会論における労働の意義について述べている。

[文献]
Hegel,G.W.F.,[1817],1970,Grundlinien der Philosophie des Rechts,Suhrkamp.
加藤尚武,1993,『ヘーゲルの「法」哲学』,青土社.
松井克弘,1995,「「官僚制」の時代認識と理解社会学」,小林一穂編著『行為と時代認識の社会学』,創風社.
見田宗介,1996,『現代社会の理論』,岩波新書.
宮台真司,2000,『自由な新世紀・不自由なあなた』,メディアファクトリー.
西研,1995,『ヘーゲル・大人のなりかた』,NHKブックス.
−−,2001,「社会の現象学」,『哲学的思考−−フッサール現象学の核心』,筑摩書房,287-334.
Weber,M.,[1904],1968,“Die ≫Objektivitaet≪ sozialwissenschaflicher und sozialpolitscher Erkenntinis”<Gesammelte Aufsaetze zur Wissenschaftslehre>,Tuebingen=富永祐治・立野保男訳,折原浩補訳,1998,『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性』,岩波文庫.


Sociology and the Ideas of Civil Society
− Comments on reports on ‘Possibilities of Sociology as Philosophy’ −
Ken NISHI

Activities that investigate causes of difficulties in society and share the knowledge with the members of the society constitute Scociology. These sociological activities presuppose an idea of society: the society is run by equal citizens. In this paper, I regard such an idea as one of the ideas of civil society and elucidate its essence. Also I examine Parsons’, Weber’s and Marx’s attitude towards the idea of civil society in commenting on the reports.

First, I consider Parsons as an essential theorist who continued examining social conditions in order to accomplish the ideas of freedom and equality without relying on revolutionary theory. Second, I regard Weber as an important theorist who tried to elucidate conditions to establish civil society and its citizens. Finally, with regard to Marx’s thoughts, I examine the failure of Socialism; the failure to fulfill the ideas of civil society in practice.

Keywords:
sociological activities
the ideas of civil society
conditions of civil society